リスクを認めない日本文化

COVID-19の件で、アメリカのCDCは感染者が34人確認された段階で「地域感染が発生するという観測が高まった」と発表してるんですよね。

米国内の新型ウイルス感染拡大に備えを、CDCが警鐘(2/25)

たかが34人だ「まだあわてるような時間じゃない」なんて絶対に言わない。先にリスク可能性を考慮して、それに如何に備えるかを考えるのが、欧米流のリスクマネージメント。

一方で日本の厚生労働省は一貫して「まだ慌てるな」というメッセージの発信に終始し、決して「こんなリスクが有ります」なんて言わない。

ここで何も、政権ガーとか、官僚ガーとか言うつもりはありません。これって日本の「悪い文化」だと思うわけで。

つまり、難しい状況や懸命に何かに取り組んでいるときは、

  • 否定的なことを言ってはならない空気
  • 悲観的なことを言ってはならない空気

そういうやつ。精神論的なのも含め。

「リスク要因」を指摘すること明らかにすることは、意見でも忠告でもなく「悪意」とされてしまっている。

原子力発電のリスク

何が言いたいかというと、原子力発電がかつてそういう状態に晒されてきたことが残念でならないということ。

事故が起きるリスクは0%なんてあり得ない。だからこそ「事故が起こる可能性」というリスクに対し正しく備えを用意すべきなのに、当時の原子力発電は「事故の可能性が僅かでもある」なんて口が裂けても言えない。

「0.1%でも0.00001%でも、100%無事故が保証されていない限り、原子力発電所はあってはならない」と本気で声高に叫ぶ人達がいる。

事故というリスクは「あってはならないもの」だった。だからこそ、そのリスクへの備えも「あってはならないもの」に含まれてしまう。

そして、それらの声を刺激しないように、事故の備えは、注目されることも顧みられることもなく粛々と備えるしかなかった。

その結果が、リスク評価を低く見積り、備えを重視することも出来ず、防げるはずだったかもしれない2次災害を起こしてしまったのでは?と思います。

今の原子力規制委員会の仕組みは、ようやく原子力発電のリスクに向き合えるようになり、あの日の教訓が生かされた例だと思います。

厚生労働省の発表に戻ると、当事者達がパンデミックのリスクや最悪の方向のリスクを想定しないわけが無いと思います。でもきっと、それは「言えない」「言ってはならない」という圧力に晒され続けているように思えます。

その圧力は上からだけでなく、むしろ下から(国民全体)からも強くあるように思います。

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