英語教育とか「教え育てる」とか

「英語」は本当に必要なのか 早期教育化の流れの中で大学関係者から漏れる「英語不要論」
「現在の日本の段階では、英語を話す必然性はないと思っている」
まだ教育側でこんなこと言ってる人が居るのか,っていう感。うちも学生の時,小学校6年間英会話教室通いながら,中学以降の学校の英語は大嫌いだったけれども,中学生の言い訳と同じレベルやん,みたいな。「必然性」なんて確定的な事を言ったら,他の国語/算数/理科/社会などの全ての教科も必要なくなってしまう。将来の可能性を広げるために,その底上げを行うのが義務教育の役目だと思うんだけれども,将来を狭めてどうすんねん,と。
以前,日本の英語教育について調べたことがあって,日本の「使えない英語教育」は,それこそ半世紀近く前からから認識されていたのにもかかわらず,度々,教育界の反発に遭って現状に至るってのを見てきてた。「たかが一外国の言葉のくせに」とか,教育界には根深い英語教育アレルギーがあるようで。仕事でわりと近い海外出ただけでも,台湾人も中国人も韓国人も,みんな英語でコミュニケーション取るのにね。
なんか,そもそも日本って「教育」に対して意識が低いんじゃないか?と思うことがある。まず言葉からして,英語のtell/teachの区別が日本語には無くて,どっちも「おしえる」しか無いとか。日本語って,言語としては景色や季節など受動的な状態表す語句に関しては表現が豊な方だと思っているんだけれども,いざ能動的な事を表そうとしたら途端に表現が乏しい感じ。
ことわざの類いでも「習うより慣れろ」「仕事は見て盗め」「親は無くとも子は育つ」とか,もう全く教え育てる気概が感じられない。中国にだって老子の言葉に「魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教えよ」ってのがあり,いかに教育が大事かを説いているというのに。
一方で日本には,明治時代までは「教育」という言葉すら存在しなかった。「教育」という熟語は,明治時代に外来語の導入に当たりeducationを表すために作られた熟語なんよねぇ。明治から1.5世紀,終戦から半世紀以上,戦前は精神・根性偏重,終戦後は過度の平等偏重による不公正容認,未だに「教育」を文化に取り込み切れていない感。

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